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ストレスと、どう向き合うべきか?

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釈迦族という小国の王子である釈迦は、「なぜ、人間は苦しみから逃れられないのか」という疑問を持ち、その答えを見つけるために様々な苦行を行います。

様々な経験を通して、最終的に自身の探し求めていた答えを見つけることで、悟り(迷いの世界を超え、真理を体得すること)(1)に達して仏(悟りの境地に達した者)になります。

悟りというと、何か特別で神秘的なもののような印象をもつ人も多いかもしれません。

ただ、実際には、そういうものでは無いということが、ここから読み進めていくことによって理解できるかもしれません。

釈迦は、人間が苦しみから逃れられる方法を見つけたとも言えますが、そのメンタルメソッドは、人に説明するのが非常に難しいものであったと言われています。

釈迦自身も、自分のたどり着いた答えを、人々に教えても理解されないだろうから、伝えないでおこう、という結論を始めは導いたと言われています(2)

仏教というと、「南無阿弥陀仏」や、「南無妙法蓮華経」というような、念仏(仏の姿や功徳を思い描いたり、その名号を口に出して呼んだりすること)のイメージが持たれることも少なくはありません。

南無とは、帰依する・拠り所にするという意味であり、阿弥陀仏は仏のこと、妙法蓮華経とは有り難い経典(書物)のことを意味しています。

つまり、簡単に言えば、南無阿弥陀仏とは、「わたしは、仏様を、信じています」、南無妙法蓮華経とは、「わたしは、有難い経典を、信じています」というような意味合いになります。

なぜ、唱える念仏が複数あるのかというと、宗派が違うからです。

何をより重要視するかの認識の違いはありますが、元々は同じものから派生したものであり、上流を辿っていけば根本的には大きな違いは無いとも言えます。

「私は、仏や経典を信じる」と唱えることで、苦しみから救われるというものですが、これは釈迦自身が伝えたかった本質とは少し違っているとも言えます。

釈迦の死後、その教えを様々な人々が独自に解釈し、様々な宗派が生まれ、多様な形で人々に伝わっていきます。

念仏を唱えるというのは、釈迦の教えを人々に伝えるための一つの形であったと言えます。

釈迦の教えを、そのまま伝えても、難解なため人々に理解されません。

教養や知識があり、経済的な余裕や時間のある貴族の中には理解できる人もいますが、農業などの労働で一日中忙しくしている農民にとっては、釈迦のように修行する時間や、ゆっくり思考する余裕もありません。

そのような、「難しいことはよくわからないから、もっと簡単に教えてほしい」という人のために、「念仏を唱えるだけで良い」という伝え方をした人たちもいます。

これは間違った教え方をしたというのではなく、農民の人たちの状況に合わせて、最適な教え方をしたとも言えます。

難しい釈迦の教えを、簡単に教えているため、一般庶民に広く普及していくことになります(3)

現代の多くの人が、仏教に抱いている「仏様を信じる」というようなイメージの元は、ここにあるとも言えます。

ただ、上記のようなタイプの念仏というのは、釈迦の死後、約1600年後に派生した仏教であり、仏教の歴史で言えば後期の仏教とも言えます。

しかし、釈迦は、自分自身のことを神のような存在として信じてもらいたかったのではなく、本当は、自分がたどり着いた、苦しみから逃れるためのメンタルメソッドを伝えたかったのではないでしょうか。

では、本当に伝えたかったメンタルメソッドとは、一体何なのでしょうか。




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